僕はいつも下を見ていた。
隠してきたけど──隠せているかわからないけど。僕はきっとびっくりするくらい、卑屈で、後ろ向きだ。
舞い散る桜の花びらが重力に則って地面に落ちていくように、僕の心はいつも下を向いていた。
よく、病室から桜を見ていた。
月並病院には立派な桜の木があって、僕が入退院を繰り返すのと同じように、桜も咲いては散ってを繰り返していた。
ひらひらと舞っていく桜の花びらを見ていた。
その先にあの子がいたことがあった。眩い笑顔を綻ばせ、僕に会いに来てくれるあの子。
その傍らには、いつも気高くてかっこいいあの子が一緒だった。
僕は病室の窓からぼんやりとふたりを見下ろしていた。彼がそれに気づいて、彼女に合図する。彼女は僕に向かって、朗らかに手を振った。
「またね!」
そんなふたりが、僕には眩しかった。
◆
「優!」
授業が終わって、優は同級生とともにごみ捨てに出ていた。
校門近くの焼却炉に近づいたところで、不意に柔らかい声をかけられて、驚いた。
そこには小百合がいたからだ。月が丘女学院のセーラー襟を揺らして、こちらに手を振っている。
「咲良、誰? あの子」
同級生が不思議そうにそう言う。
こんなところに彼女がいるなんて思ってもいなかったから、すこし反応が遅れてしまう。
「えっと……幼なじみ、なんだ」
──本当はそれだけじゃない。
だけど、気恥ずかしさが勝ってしまって、優はそう言ってしまった。
「……ごめん。ちょっと話したいから、これお願いしてもいい?」
「えぇー。いいけどさ、あとであの子とどういう関係なのか教えろよー」
興味津々ながらも口を尖らせる彼に持っていたごみ袋を渡して、優は小百合の元へ軽く駆け寄る。まだ寒い春の風が吹いて、小百合は月の色をした髪をおさえていた。
「小百合ちゃん!」
「へへ。月が丘、今日は授業が早く終わったの。だから来ちゃった」
彼女が恥ずかしそうに笑うものだから、優も照れくさくなってしまう。
「ありがとう……ここまで、遠かったでしょ」
「ううん。夢見学園の方まで来たの、久しぶりで楽しかったよ」
見ると、彼女は手に控えめな色合いの花束を抱えていた。「それは、」と聞こうとして、優は思い出す。
「……そうか、今日は……」
優の様子に、小百合は頷いた。
「うん。茨の命日だから」
少しの間、静寂がふたりを包んだけれど──優は小百合が何か言い出す前に声を出した。
「僕も……一緒に行っていい?」
「……もちろん! 誘おうと思ってたんだ、優のこと」
微笑む小百合は、いつもより少し大人っぽく見えた。
どきりと鳴る胸をおさえて、優は「もうちょっとで終わるから、待ってて」と小百合に伝えて、同級生の待つ教室へ戻った。
◆
同級生からの質問攻めもそこそこにかわして、改めて優は小百合の待つ校門まで向かった。
小百合は変わらず月の満ち欠けが描かれたスカートを風に揺らしていたけれど、優を見つけて、やっぱり花が咲いたように笑うのだ。その笑顔はどこにいても、いくつになっても変わらない。
優は彼女の笑顔が大好きだった。
「……それでね? あやめったら」
茨の元へ向かう間も、小百合はいつもと変わらない調子で友だちのことを話す。
「巴がね、こう言ってて……」
こうして話していると、小学生の頃に戻ったみたいだ。
優が小百合と茨に出会ったのは低学年のときだった。家族が自分の為に見舞いの花を買いに行ってくれて、そのとき立ち寄った花屋の店長の子どもたちがふたりだったのだ。
同じ小学校に通っていると知って、話が盛り上がった。なかなか復学できない優をふたりは度々見舞いに来てくれた。
時々復学の許可が下りた時は、通学路をふたりとよく一緒に歩いたものだ。
優は小百合の話をまっすぐ聞いて、相槌を返していた。
そうしているうちに、彼の元へ辿りついた。
鈍い色の墓石には、茨の名前。それと、小百合と茨の母親の名前が刻まれている。
「しばらく来られなくて……雑草生えちゃってるね」
困ったように笑う小百合に、優は「手分けしようか」と声をかける。
「体は大丈夫?」
「うん。最近、調子が良いんだ。心配しないで」
小百合から手渡された軍手を嵌めながら、優はもうだいぶ遠くなった茨の横顔を思い出す。
幼いころ、小百合がなにかをしでかす度に、彼は呆れていたような記憶がある。だけど、一生懸命生きているいまの小百合を見て、ちょっとくらい自分たちの世話が後回しにされたって、茨が怒るわけがない。
彼はしっかりしていて、ちょっと口が悪いけど、とてもやさしい少年だった。
「茨もおばさんも、綺麗な所で眠りたいよね」
何気なくそう言ったつもりだった。小百合は笑って頷いた。
「そうだね」
しばらくして、訪れる前よりずっと綺麗になった墓前に小百合が線香を供える。
優はそれを少し下がった位置で見ていたけれど、彼女に手招きされて、横にしゃがみこんだ。
「いっしょに挨拶しようよ。わたしたちは元気だって。茨も優のこと、心配してるから」
断る理由なんてあるわけない。ふたりは手を合わせ、彼らに近況を伝えた。
◆
僕はいつだって下を見ていたけど。
僕の前にはいつも朗らかで前向きなあの子と、生意気だけどやさしいあの子がいた。
だから、少しずつ前を向けるようになった。ふたりを追いかけるようになって、笑うことが増えた。
劣等感を感じることだってずっと減った。
──そんなあの子は突然、ひとりになった。
◆
「あ……分かれ道」
そう言って、小百合は立ち止まる。
墓参りを終え、かつての茨の思い出話に花を咲かせていたふたりは、顔を見合わせた。
「暦まで送るよ」
優はそう言って微笑んだ。彼女のことが心配だし、まだまだ話したいことがあった。
小百合は少し視線を落とし、もじもじとする。あまり見ない彼女の仕草に、優は首を傾げた。
「……優の家、行っていい?」
「え?」
意外な言葉に驚いた。懇願するように見上げてくる小百合に、優は答える。
「父さん、仕事で遅いし……今日は母さんも出てるんだ。あまりおもてなしできないけど……」
「いいの。……優がイヤじゃなければ、お家に行きたいな」
嫌なはずがない。優は「わかった。じゃあ、行こう」と頷いた。
小百合は嬉しそうにぱあ、と表情を輝かせた。彼女のこんな表情が、優は一番好きだった。
ちょっとドキドキした気持ちのまま、彼女をリードするために大きく歩き出す。すると、小百合がそっと手を握ってきた。さらにドキドキして──優がそれを握り返すと、やっぱり小百合は嬉しそうに笑う。
だけど、彼女にとってはそれだけの感情じゃなかったことを、まだ優は気付くことができなかった。
◆
自室の扉が閉まると同時に、どさりと鞄が落ちる。それは優が肩に掛けていた鞄だった。
「…………っ!」
背伸びして、小百合が自分の唇を押し当ててきている事を理解するのに、少し時間がかかった。
暖かくて、柔く湿っていて、優しい感触を、優は受け止めるので精いっぱいだった。
もたれかかるような勢いの彼女の体を支える。添えた手に気づいたのか、小百合はさらに唇を寄せて来た。
「ま、待って……小百合、ちゃん」
「ん……待たない……っ」
息継ぐ間もなく、何度も擦り当てられる唇の繊細さに優は圧倒される。
音を立てて何度も口付けされて、時々漏れる彼女の吐息に、心臓が暴走しそうだった。
だけど、困惑も残った。彼女は自主的に自分の手を引いてくれる性格だったけど、ここまで強引な行動をされたことはほとんどない。
だから小百合が落ち着くまで、優は彼女からのキスを受け止め続けた。
「……はぁっ」
一層大きな息をついて、小百合は唇を離すと、優の細い体をぎゅっと抱き寄せた。
そのまま、ふたりでしゃがみこんでしまう。
病院の屋上でめちゃくちゃな告白をして、受け止めてもらって、キスをしたことは何度かあった。そのたびにドキドキして、目の前が白んだのに。
「…………優、心臓がどきどきしてるね」
静かに小百合が言う。
「生きてるんだ。こんなにあったかい体で、心臓を動かして、優は、生きてる」
「小百合ちゃん……?」
彼女の言葉の意図が掴めない。
だけど、こんなに不安定で崩れそうな小百合を見たのは、あの時以来。
茨がいなくなってから。
ずっと見てるだけだった翡翠の瞳を覗かせて、小百合が言う。
「……わたし、優と、えっち……したい」
ストレートなその言葉に、ぼっと顔が熱くなった。優は思わず小さな声を零してしまう。
「小百合ちゃ……」
「きみと離れたくないの。ワガママでごめん……」
彼女の名前を呼ぼうとした優の唇を、小百合は自分のそれで塞ぐ。
頭に手を回されて、深く口付けられる。その時優はばちっ、と頭の中に光が走るのを感じた。
今日の言葉は、全部確認だったんだ。僕が、大丈夫かどうか。
「んん……っ」
甘い声を出して、唇を重ね合いながら小百合は優にすがる。無意識に彼女の細腰に手を伸ばした。そのうち小百合が舌をそっと出してくるものだから、優はそれを噛みつくように受け入れた。
溶け合うように四肢を絡ませ縺れこむ。固い床なんて気にしていられなかった。瞳を潤ませる彼女の柔い頬に触れる。自分と同じように高鳴る小百合の心臓の音が耳に飛び込んでくる。
お互いの空気を貪るみたいに、ぴちゃぴちゃと舌を絡ませ合った。小百合が頬を紅潮させて、しがみついてくる。
優は無我夢中で、彼女の下半身に手を伸ばす。スカートの下、タイツの中を潜って、ショーツを指でつうっとなぞる。
「あっ……」
小百合が跳ねた甘い声を出した。触れた先はもうじっとりと湿っていて、それが彼女の気持ちを全部表しているみたいだった。
下半身に血が巡り、熱くなっていくのを感じる。膨張していく優自身を、小百合はその手でズボン越しに撫でた。
チャックを降ろしてゆっくり、それを取り出すと、小百合は何も言わずにスカートを捲った。
……心臓が爆発しそうだとか、避妊をどうしようだとか。そういう大事な事に、思考が回らなかった。お互いしか見えていなかった。優は深く息を吸って、小百合は自身の腰を深く落とした。
「っ……!」
「あぁ…………っ」
──つながる瞬間、二人は小さな悲鳴を上げた。ただ視線がぶつかって……小百合はもう一度キスを振る舞った。
それを皮切りに、優は小百合の内側を抉るように、擦るように、すこしずつ腰を動かし始めた。
「あ、優、ゆう、っ」
ナカが馴染んできて、ぱちゅ、ぱちゅ、と水音が零れる。ひたすらに小百合の中に肉棒を打ち込む優に、彼女はすがるように手を添える。
「優、好き……すき、あっ」
聞いたことのない、なによりも甘ったるい声が耳元に響く。小百合にまっすぐに「好き」と言われる度に、頭の中がチカチカする。
いつかの時間、どこかで散っていく桜のように、可憐な彼女を見ていた。
「……おねがい、どこにもいかないで」
制服越しでも分かる、やわらかな胸に抱かれる。小百合にぎゅっと抱き寄せられ、優は彼女の心情をありのままぶつけられた気持ちになった。小百合は言う。
「“ぼく”をおいてかないで、」
“性”を纏わせた嬌声に、小百合の心からの悲鳴が滲む。溶け合う下半身同士がもっと深くつながり合うように重なった。
「ぼく、ぼく……」
喘ぐように泣きながら小百合は言った。
彼女の深い所を何度も突きながら、優は一生懸命に息をした。
「……泣かないで、小百合ちゃん。僕が守る。君のこと、絶対守るから」
細い腕で彼女を掻き抱いて、優は夢物語を叫んだ。愛を深く打ち付けて、小百合は彼の名前を呼んだ。
「優……っ」
それを合図に、優は自分の愛情を彼女の胎内に放った。
吐き出された彼のありったけの気持ちを、小百合は受け止めて、甘い声を出して──嬉しそうに笑った。
◆
「……おまえ、アイツのこと好きなんだろ?」
いきなりそう言われて、すごくびっくりしたのを覚えている。
驚いて君を見ると、君は生意気そうに続けて言ったっけ。
「あんなのの何がいいのか、ボクはわかんないけどな」
「い、茨……僕、そんなことひとことも」
「見てればわかる。寝ても覚めても、ずーっとあいつのこと追っかけて。虚しくなんない?」
相変わらず棘のある言い方だったけど、不思議と声で分かるんだ。
彼の色んな感情が。僕を、心配してくれていることが。
「……でもボクは、おまえのこと、まあ嫌いじゃないから……」
恥ずかしくって口を閉じる僕に、茨は不意にニヤっと笑って見せた。
「応援してやる。ボクがいないときは、アイツのこと頼んだからな」
◆
小百合にぎゅっと抱き寄せられたまま、優はそんなことを思い出した。
制服をぐしゃぐしゃにして、果ててしまった。蕩け合った下半身同士は、ぐっと近づいたままだ。
小百合はぐずぐずと、子どもに戻ったみたいに鼻をすすっている。
いつも、彼女に引っ張ってもらっていたから。どこか大人びて、弱っていた彼女にすぐ気づいてあげられなかった自分が情けない。
優は小百合の涙をその手で拭った。
「優……」
泣き腫らして、幼子のような瞳を見せる彼女。
きっと今日、小百合が何よりも望んでいたその言葉を、優は大きく息を吸って、言う。
「大丈夫。僕はどこにも行かない」
変わらず鳴り続ける、頼りない自分の心臓に願いをこめて。
「小百合ちゃんと、ずっと一緒だ」